館長からのメッセージ

宗教とのであい

食文化を物語る築地の包丁店 食文化を物語る築地の包丁店

私は小学校時代は、教師だった父の赴任先の、埼玉県は秩父市ですごした。杉木立の中の臨済宗の禅寺の境内に借家住まいだった。朝な夕なに殷々と響き渡る和尚の読経を聞いて育った。

大学で魚類学を学んで、上野動園水族館に就職して間もなく、恩師の薦めでアラビア湾での魚類調査に携わった。中東の地に1年間過ごしたが、ここでは朝な夕なにモスクから朗々とコラーンが聞こえてきた。
イスラム教という宗教は熱砂の砂漠にふさわしいと思った。仏教とイスラム教のそれぞれの宗教の雰囲気が五感にしみついている。

葛西臨海水族園長時代には、海外から水族館人がやってくると、文化の相違による違和感をできるだけ早く解消して、ストレートな対話が成り立つように努めてきた。まず日本人が何を食べているのかを知って頂くために、築地魚市場にご案内することにしてきた。時差ぼけで早朝目を覚ましてしまう来日の翌日にご案内するのが有効である。朝陽が射すころ築地の見学が終わり、市場の食堂でビールを飲みながら朝食をとる。こうしたことは勿論自腹でなければならない。カルチャーショックを与え、友人づきあいになる。

世界から集まる築地の冷凍マグロ 世界から集まる築地の冷凍マグロ

いわきの地に来て大国魂神社の宮司氏とお会いし、神社の行事にも参加させていただいた。日本では仏壇と並んで祭られる神道のなんたるかもよくわからなかった私だが、仏教よりも古い神道が日本人の土着の宗教であり、そこには偶像もないことを知った。

キリスト教で使われる魚のシンボル キリスト教で使われる魚のシンボル

キリスト教には最近まで遭遇していなかった。ある日、いわき市の中心部、平の病院の待合室でバプテイスト教会のアメリカ人の司祭に会った。バプテイスト教派は英国からアメリカに移住したプロテスタントの優勢な一派ということだ。某司祭は温厚そうな方で日本語も堪能だった。
私が大学で魚類学を学んだことを告げると、膝を打って魚類学イクシオロジーIchthyologyの語源について興味深いお話をしてくれた。魚類学のイクシIchthの最初の5文字にはキリスト教上重大な意味があるというのだ。ギリシャ語では最初の5文字はイクスュスiχθνsと書く。魚の意味である。iはイエースースーであり「イエス」、χはクリーストスであり「キリスト」、θはセオスつまり「神」、νはヒュイオス「子」、sはソーテールつまり「救い主」を意味するという。Ichth・魚がキリスト教の真髄でもある重要な意味を持つとは知らなかった。
敬虔なキリスト教信者にとって、魚食民族である日本人は全くの異教徒と見られても仕方ない。魚の王様でもあるクジラを食べるのは最も野蛮な行為ということにもなりかねない。動物系統樹のあらゆる枝を食べつくす日本人の食文化は全く特異である。このごろの反捕鯨団体の日本の調査捕鯨に対するシーシェパードの活動を見ると、鯨を食べる文化は野蛮人のそれだと思っているに違いない。彼らの憎しみを込めたキャンペーンの強烈さは、動物の保全だけが原動力ではなく宗教的な魚類学の語源に基づいているのかも知れない。
しかし、私たちは伝統の食文化のなかで鯨だけ例外にするわけはいかない。水産に携わる日本人が、このことについて外国人との議論を敬遠してきたことによる誤解もあるはずだ。

さて、2008年10月の19日から上海で開催された第7回世界水族館会議のプレツアーで22名のヨーロッパ人(フランス5、フィンランド1、オランダ1、ドイツ5、ベルギー1、オーストリア1、スペイン4、スイス1、ギリシャ3)がアクアマリンふくしまの見学にやってきた。この中には私が築地でのカルチャーショックを与えた友人が何人かいたので、少々手の込んだ歓迎を計画した。くだんの宮司氏に相談すると、到着の日に神社の敷地内で昼食会をすることを二つ返事で受け入れてくれた。
まず全員で神社に参拝した。二礼、二拍、一礼。神殿の奥にあがると、そこには白い鳥が天に昇る紙を切った神垂(しで)しかないことを知り、ご本尊がないことに一同カルチャーショックを受けたようだ。続いて恵比寿様が鯛を釣り上げる神楽の出し物まで演出した。幸い好天で宮司氏のお宅の竹林の中庭に火を囲んだ。助っ人の四倉の漁師さんたちがいわきの新鮮な魚介類や珍味を持ち寄った。古式の製塩小屋で作った天然塩も味わってもらった。
珍味にはクジラもあった。数人は遠慮したようだが、多くが舌鼓を打った。さすが水族館長たちである。八百万の神は、GodではなくSpiritsであること、それは海山川の自然そのものであること、日本人の苗字に海山川の自然が付いていることなど、火を囲んで話は尽きなかった。
一行とは、上海の国際会議場で再会した。彼らは、神社体験とアクアマリンふくしまの完成度の高い展示や「命の教育」活動について口をそろえて賞賛した。こうした交流の場を提供して頂いた大国魂神社の宮司をはじめ四ツ倉の皆様にあらためて感謝します。

後日、団長格のヨーロッパの水族館協会事務局長のバンデンサンデさんと前ベルリン動物園長のユルゲンランゲさんから礼状をいただいた。「アクアマリンふくしまの展示の質の高さ、新鮮なシーラカンスの標本を見たこと、アクアララバンの機動力、そして、神社での昼食会など、本当に忘れがたい思い出になった。お心遣いをいただいた皆様にお礼を申し上げる」。